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連載 田中角栄 #02/05

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角栄がひらいた事務所は飯田橋駅のちかくで、あるくとすぐに神楽坂の界隈にはいる。神楽坂は角栄のホームグラウンドとなる場所だ。

 

角栄はここで「料亭政治」を身につけていく。芸者衆、仲居、板場、玄関番のおじいさんにいたるまで心付けをわすれなかった。

 

1945年、敗戦のとしの11月、進歩党の大麻唯男によばれた。大麻唯男は田中土建工業の顧問のひとりである。

 

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呼ばれた角栄はこういわれた。「キミ、いくらかカネをだしてくれないか」

 

進歩党は、宇垣一成と町田忠治が党首の座をあらそっているところだった。先に300万円あつめたほうが党首になる、そういう約束だった。

 

大麻は町田を推していた。角栄は了承し、巨額の献金をした。

 

カネの無心から半月ほどして、こんどは大麻は角栄に選挙の立候補をすすめてきた。

 

「15万円だして黙って1ヶ月おみこしにのっていれば当選するよ」

 

結果は、落選。「おみこしの担ぎ手」が角栄をかつぐどころか、自分で立候補してしまったこと、有力者にわたしたカネが選挙に活きなかったことが敗因だ。

 

チャンスはすぐにやってきた。1947年4月、戦後2回目の衆院選がおこなわれることになった。

 

「こんどは人任せにしない」

 

角栄は新潟三区に出馬。柏崎と長岡に田中土建の出張所をつくり、社員100人を採用して選挙運動を展開した。

 

 

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結果は3位で当選。角栄は政界入りをはたす。29歳だった。

 

角栄のテーマは「産業」と「生活」だった。

 

農村工業の発達、中小工業都市の発達、人口集中の排除をうったえた。後の「日本列島改造論」にみられる考えがそのままあらわれている。

 

角栄が当選した選挙では社会党が第一党になり、片山哲を首相とする内閣がうまれた。

 

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このとき国会で「炭鉱国家管理法案」というものが議論される。石炭産業の本社機構と生産現場をきりはなす。国が生産現場をおさえて増産し、そこに労働者を参加させる。社会主義色がつよい政策だった。

 

時を同じくして、角栄の田中土建工業は急成長していた。炭鉱のある九州で炭鉱住宅を手がけていた。法案が成立すればじぶんの商売にも影響がでる。

 

角栄は法案に反対した。このときの話が後の「炭鉱国管汚職事件」につながってくる。

 

1948年3月、吉田茂を総裁とする民主自由党が誕生した。10月、第二次吉田内閣ができる。角栄はここで法務政務次官に抜擢された。

 

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角栄いわく、「えらくなるには大将のふところに入ることだ」

 

余談だが、吉田茂が愛飲していたお酒は「オールド・パー」というブレンディッド・ウイスキーだ。若き日の角栄に吉田はオールド・パーをふるまったことがあった。角栄の愛飲酒もまたオールド・パーである。「大将」を想いつづける気持ちがどこかにあったのかもしれない。

 

吉田内閣が発足してひと月ほどたったころ、東京高等検察庁による家宅捜索が角栄の自宅、田中土建などにはいった。

 

炭鉱国家管理法案に反対する九州の採炭業者からワイロをうけとった容疑がかけられていた。

 

炭鉱国管汚職事件である。

 

1948年12月、角栄は東京拘置所に収監される。

 

そして、12月23日、A級戦犯が処刑されたこの日に、吉田首相は衆議院を解散する。

 

獄中にいた角栄は立候補を決意する。保釈許可がおりてシャバにでたのは1月13日。選挙運動をする時間は10日間しかなかった。

 

にもかかわらず、結果は2位で当選。支えたのは南魚沼、栃尾といった土地の若者たちだった。旧態依然とした支配構造に嫌気がさし、若い角栄に懸けていた。

 

数年ののち、新潟三区、三十三市町村にはりめぐらされる政治結社「越山会」が育っていく。

  

炭管事件については、1950年4月、第一審の判決で角栄は有罪になる。がしかし、二審の東京高裁では一転、無罪判決となった。

 

なにはともあれ、最初の危機をのりきった。

 

角栄が獄中で立候補を決意したこの衆院選は、吉田茂ひきいる民主自由党が大勝利をおさめた。

 

池田勇人、佐藤栄作、西村英一、前尾繁三郎らが当選した。かれらは「吉田学校」とよばれるようになり、角栄の政治人生にもおおきな影響をおよぼしていく。

 

 

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当時の角栄のテーマは「住宅」だった。

 

1951年5月から6月にかけて「公営住宅法」と「住宅金融公庫法改正」が成立した。いずれも角栄が提案者となった議員立法である。

 

「無名の一〇年」といわれる角栄のこの時代のハイライトは道路法の抜本改正だ。

このころ、日本の道路のほとんどは未整備だった。

 

旧道路法では「国道」とは天皇と軍のためにもちいられるものを指した。角栄はこれを新道路法において、政治上、経済上、文化上の重要都市を結ぶものとあらためた。

 

道路建設の決定には大臣だけでなく、道路審議会をかかわらせることにした。「陳情」による道路をつくりやすくするためでもあった。

 

1952年6月、道路法は成立した。