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連載 田中角栄 #03/05

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1957年7月10日、角栄は郵政大臣として初入閣する。岸首相の最初の改造内閣のことであった。角栄、39歳である。

 

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大臣としての仕事がはじまったとき、角栄が屋上にのぼると建設が途中でストップしいている東京タワーが目にとびこんできた。きけば建築基準法違反だという。

 

「よし、これは俺が処理してやる!」

 

角栄は建設事務次官にちょくせつ、かけあった。

 

「東京タワーは広告塔であってふつうの建物とはちがう。高さ制限の対象ではない」

ストップしていた工事は再開され、1958年12月23日に、無事、完成する。

 

角栄は労使関係の正常化に着手した。全逓信労働組合の幹部7人の解雇をふくむ、全組合員の一割にそうとうする2万人を処分した。

 

また、放置されていたテレビの免許許可を一括でおこなった。テレビ時代のとうらいを見こしてのことだった。

 

そして、特定郵便局、二万局拡大構想なるものをぶちあげた。

 

特定郵便局とは、局舎をタダで提供してもらうかわりに、地方の名望家を郵便局長に登用、「官」の身分をあたえる。長年つとめあげれば勲章がもらえ、代替わりの世襲もできる。郵便局長は「顔」で地域の貯金をあつめ、戦時中は軍事費にまわされたりした。

 

角栄はかんがえた。国民からあつめる税金だけではない、国民の貯金も公共投資にまわせば、日本経済の飛躍のバネになるのではないか・・・。

 

しかし、二万局というのはおおげさで、結局、さいしょは二千局がみとめられた。

 

のち、特定郵便局を基点としてはりめぐらされたネットワークは自民党の集票マシンとなる。

 

「道路」、そして「郵政」。

 

自民党の派閥体質。政官業の癒着体質。すべては角栄からはじまっている。小泉純一郎が「ぶっこわす」とした「構造」である。

 

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むかえた1958年5月の衆院選挙。角栄はトップ当選。岸政権のもとで自民党副幹事長となる。

 

角栄は佐藤栄作を代表とする、佐藤派の派閥代表だった。そして、副幹事長として六〇年安保闘争をむかえる。

 

 

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時代は「安保」の岸から「所得倍増」の池田へ。

 

「所得倍増」をうちだした池田勇人が自民党総裁選をせいした。

 

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1960年11月の衆院選挙。角栄はトップ当選し、当選回数は7回をかそえるまでになった。

 

1961年7月、角栄は自民党政務調査会長になる。

 

1962年2月、来日中のロバート・ケネディ司法長官が自民党の若手議員と懇談したいと要望した。

 

 

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あつめられたのは、中曽根康弘、宮澤喜一、そして政務調査会長の田中角栄。

 

オフレコの席だったにもかかわらず、東京タイムズの早坂茂三がスクープ記事をかいた。

 

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角栄はケネディにこう言った。日本が憲法改正して再軍備し、日米共同防衛体制をととのえなければ、沖縄を日本にかえすことはできないだろう。それならば、沖縄返還にあたっては、アメリカのほうから日本に憲法改正と再軍備を要請してくれ・・・。

 

池田首相は尻ぬぐいにおわれることになる。

 

早坂茂三は「記事を書いたのは自分です」と、角栄に名乗りでる。

 

角栄はこたえる。「君の顔なら知っている。記者は書くのが仕事、政治家は書かれるのが仕事だ。こんかいは君の勝ちだ。ナニ、騒ぎはじきおさまる。野党がオレの首をとれるものか」

 

早坂は角栄に魅せられ、のちに秘書となる。

 

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1962年7月、第二次池田改造内閣で角栄は大蔵大臣に就任する。史上最年少、44歳だった。

 

このとき、外務大臣となった大平正芳は生涯の盟友となる。

 

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角栄は初登庁で大蔵官僚を前に訓示をのべた。

 

「わたしは小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家だ。わたしは素人だが、いささか仕事のコツをしっている。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室へ来てほしい。上司の許可をえる必要はない。できることはやる。できないことはやらない。すべての責任はこの田中角栄が負う」

 

角栄は官僚操縦に長けており、魅了される官僚もいた。

 

1964年10月、東京オリンピックを見届けた池田勇人は首相退任を表明する。池田はがんを患っていた。

 

次の政権を担ったのは、佐藤栄作である。角栄はひきつづき大蔵大臣をつとめた。

 

1965年6月、角栄は自民党幹事長に就任する。佐藤政権のもと、2回にわけて延べ4年1ヶ月つとめた。

 

幹事長のおもな仕事は、人事にかんする党内調整、野党とのつきあい、国会運営の指揮、選挙の候補者選定、選挙戦の采配、である。

 

世話焼きの角栄にピッタリの役柄だった。

 

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佐藤栄作は「沖縄返還」を掲げていた。

 

1967年11月、佐藤は訪米してジョンソン大統領と会談した。共同声明に「両3年以内に返還の時期を決めること」と盛り込むことができた。

 

 

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1968年11月、一時、無役でいた角栄が幹事長に復帰する。

 

1969年11月、佐藤はワシントンに飛び、ジョンソン変わってニクソン大統領との会談に臨んだ。

 

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ニクソンは南部諸州の票をえるために、繊維製品の対米輸出国に自主規制させることを主張、応じない場合は輸入制限すると公約していた。

 

ニクソンは「沖縄問題」と「繊維問題」を絡ませてきた。

 

1969年12月の衆院選挙。角栄が陣頭指揮をとり、稀にみる大勝利をおさめた。

のちの田中派の中核となる、小沢一郎、羽田孜、梶山静六、渡部恒三らが初当選。田中派以外では、森喜朗、浜田幸一。野党では土井たか子、不破哲三の名前がならんだ。

 

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「繊維問題」はいっこうに片づかなかった。これが片づかないことには「沖縄返還」もままならない。

 

1971年7月、佐藤首相は内閣改造をし、角栄を通産相に起用する。「繊維問題」を託した。

 

角栄は輸出規制によって余ってしまう織機を政府が買い上げることにした。そのためにかかる費用はざっと2000億円。

 

通産省の予算が数千億円のレベルである。

 

角栄は総理大臣、大蔵大臣、大蔵省主計官を納得させた。「織機は倉庫にしまわせてはイカン。ぜんぶ壊せ」という指示もだすという徹底ぶりだ。

 

1971年10月、「日米繊維協定のための了解覚書」が調印された。

 

1972年5月15日、沖縄が返還される。

 

6月、佐藤栄作は首相退任の記者会見にのぞんだ。7年8ヶ月の長期政権は終わりをつげた。

 

角栄は福田赳夫との総裁選を制し、1972年7月6日、国会で内閣総理大臣に指名される。