連載 田中角栄 #04/05

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1971年7月15日、ニクソン米大統領は中国を訪問する予定があることを発表した。

 

「金とドルの交換の一時停止」とならぶ「ニクソン・ショック」のひとつである。

 

首相となった角栄は日中国交正常化にむけて動きだす。

 

「周恩来、毛沢東といった中国の『創業者』の目の黒いうちにやらなきゃイカン」

 

1972年8月31日、角栄はハワイに飛び、ニクソンとの首脳会談にのぞんだ。角栄はニクソンに日中国交正常化にむけて動くことを伝える。

 

9月17日、自民党副総裁・椎名悦三郎が特使として台湾に飛ぶ。蒋介石はかぜと称して会ってもくれなかった。

 

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9月25日、角栄は大平正芳外相らとともに北京空港におりたった。出迎えた周恩来と握手をかわす。

 

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角栄と周恩来のやりとりは雑ぱくだった。

 

「日本は中国に迷惑をかけっぱなしだ」
「それで、アンタはどうするんだ」
「だから、わたしのほうから会いにきたんだ」
「日本に殺された中国人は1100万人もいるんだぞ」
「日中両国が永遠の平和をむすぶ以外にない。だけど、あなたがたも日本を攻めてきたことがあったではないか」
「それは元寇のことか。あれはわが国ではない。蒙古だ」
「1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか」
「アンタ、よく勉強してきたね」

 

こんな調子で話し合いはすすんでいった。角栄は「蒋介石をどう思うか」、「尖閣諸島についてどう思うか」などと持ちだしたりした。

 

1972年9月29日、日中共同声明に調印する。中国もソ連とのあいだの緊張の高まりから、日本との国交をはやめに回復する必要があった。政権発足から三ヶ月もたっていなかった。

 

日中関係の修復という成果にもかかわらず、角栄にたいする支持は低下していく。

 

12月10日に実施された衆院選挙では、自民党は解散前の297議席から271議席とおおきく後退した。

 

いったい、敗因はなんだったのか。ポイントは『日本列島改造論』にある。

 

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角栄の著書、『日本列島改造論』は1972年6月20日に発刊された。

 

といっても角栄が「書いた」のは序文と「1 私はこう考える」と「むすび」で、ほかは官僚や秘書、新聞記者がたずさわった。

 

主張は日本列島全域の発展だ。都市はどんどん過密になり、農村はどんどん荒廃していく。これでは、イカンというわけだ。

 

そのために何をするか。

 

工業団地を整備する。新幹線と高速道路をつくる。情報通信網のネットワークを形成する。

 

そうすれば、「都市と農村、表日本と裏日本の格差はかならずなくすことができる」というわけだ。

 

本のなかには具体的な地名や理想図がでていた。それをみて喜んだひともいたが、危惧したひともいた。

 

なんの整備をするにせよ、用地買収がひつようになる。が、土地の値上がりに対する対策がない。期待で土地の値段があがりはじめたら、ほかの物価もつられてあがりはじめるだろう。そもそも前提となる経済の高成長があやしい・・・。

 

そして、1972年10月、第四次中東戦争が勃発。オイルショックがおこる。石油の値段は4倍にはねあがった。

 

田中内閣の成立後、世間は「狂乱物価」とよばれるインフレに苦しめられる。

 

11月、愛知揆一蔵相が急死する。角栄は後任を福田赳夫におねがいするが、福田はすぐには引き受けなかった。

 

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福田は角栄に言う。「経済の運営は手綱が二本ある。人間でいえば呼吸が物価、脈拍は国際収支だ。いまは二本の手綱がめちゃくちゃになってきた。オイルショックのせいじゃない。日本列島改造論のせいだ。これを引っ込めないかぎり事態の修復はできない」

 

角栄は日本列島改造論を撤回し、事態の修復を福田にまかせた。

 

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1974年10月9日。月刊誌『文藝春秋』の11月号に2本の記事がのった。

 

立花隆の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と児玉隆也の「淋しき越山会の女王」である。

 

立花隆は言う。「そのインパクトの大きさは、その論文プロパーの持つ力ではなかった。背中に荷物を目いっぱい積んでようやく立っているロバの背に、ワラを一本のせただけで、ロバはひっくりかえることがある。私はただ、最後の一本のワラをのせる栄誉を担ったただけにすぎない」

 

児玉隆也は「越山会の女王」、佐藤昭について書いた。越山会とは新潟三区、三十三市町村にまたがる角栄の政治団体である。年間20億円の政治献金、その金庫番が佐藤昭だった。

 

新潟県柏崎の生まれで、角栄がはじめて選挙に立候補したときに出会った。

 

1952年、角栄に「オレの秘書にならないか」とさそわれる。

 

1957年、角栄とのあいだに女の子をもうけた。

 

ウラでは”角栄の懐刀”とささやかれ、オモテでは”佐藤ママ”とよばれた。

 

角栄が総理大臣になるとき、角栄の秘書だった麓邦明と早坂茂三はうったえた。「佐藤昭は命取りになる。切ってほしい」

 

角栄は、こたえる。「切れない。キミたちにはわからない事情がある」

 

麓は角栄のもとを去り、かれらの危惧は現実となる。

 

1974年11月26日。角栄は首相さいごの朝をむかえる。

 

角栄邸の前の日本女子大学の窓から手をふる女子学生がいて、角栄はうれしそうに手をふりかえした。

 

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角栄の後任はだれになるのか。自民党は危機に立たされていた。自民党内部もさまざまな政治力学がはたらき、分解しそうになっていた。

 

たくされたのは椎名悦三郎である。12月1日、椎名は三木武夫、中曽根康弘、大平正芳、福田赳夫を前にして裁定をだした。

 

 

 

「わが党は第一歩より出直すにひとしいきびしい反省と強い指導力が要求されています。政治の空白は一日たりとも許されません。わたしは国家国民のために神にいのる気持ちで考えぬきました。国民は派閥抗争をやめ、近代政党への脱皮について研鑽と努力を怠らざる情熱を持つ人を待望しています。わたしはこの際、政界の長老である三木武夫くんを推挙申しあげます」

 

椎名は裁定をよみあげるとサッと席を立った。

 

福田、中曽根はこの裁定を受けいれる。問題は大平である。

 

大平は盟友、田中角栄のもとに駆け込む。

 

角栄「これはしょうがない。うまくやられた。51対49でキミの負けだよ」

 

かくして三木政権が誕生する。

 

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年が明けて1976年2月5日。ワシントンから衝撃的なニュースがとどく。

 

アメリカの航空機メーカー・ロッキード社から日本の商社・丸紅と児玉誉士夫に巨額のワイロがわたっていた、というものである。さらにロッキード社は、全日空への売り込みのため、国際興業社主の小佐野賢治におねがいしたこと、日本政府当局者にワイロをおくったことを認めた。

 

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世にいうロッキード事件である。

 

捜査の延長線上には田中角栄の名前があがっていた。

 

三木首相はこれを機に角栄の影響力を減殺しようともくろむ。

 

1976年7月27日早朝、角栄は逮捕される。8月16日、東京地検は角栄を受託収賄罪と外国為替管理法違反で東京地裁に起訴した。

 

自民党内からは「前総理まで逮捕させるとは、三木はやりすぎだ!」という声があがる。三木おろしがはじまった。

 

1976年11月15日、「ロッキード選挙」とよばれる衆院選挙が公示された。

 

角栄は新潟三区入りする。はたして、どれくらいの票をあつめるのか。

 

12月5日、開票。角栄は16万8522票で圧勝だった。

 

当時、朝日新聞の編集委員だった本多勝一がこんな文章をのこしている。

 

中央に対するイナカ、「表」に対する「裏」、都市的・秀才的・エリート的な「日の当たる世界」に対する「ふみつけにされつづけた側」の怒りと痛み。それをたくして反撃に出たのが、こんどの17万票だともいえよう

 

三木は退任し、福田赳夫が首相の座につく。

 

1977年1月27日。角栄はいよいよロッキード裁判をむかえる。それから判決の日までの6年8ヶ月間、東京地裁の計191回の公判廷にかよった。

 

角栄は一貫して容疑を否認しつづけた。

 

福田赳夫のあとの首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とつづいた。

 

「目白の闇将軍」とよばれた角栄は、ウラで政治を動かしつづけていた。