連載 田中角栄 #05/05
角栄にとって気がかりなことがあった。田中派内の若手議員の不満である。
首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とつづいていた。なぜ、田中派から候補をださないのか。
角栄は田中派から首相候補をだし、自らの求心力がおちるのをおそれていたのである。
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総理大臣となった中曽根康弘は、1983年の年が明けてから、韓国を訪問した。つづいてアメリカに飛び、レーガン大統領と「ロンヤス関係」とよばれる信頼関係をむすぶ。
一方の角栄は、論告求刑の日をむかえていた。検察側は角栄に懲役5年、追徴金5億円を求刑する。
角栄は秋に予定されているロッキード事件の判決前に、衆院選参院選のダブル選挙を主張する。
しかし、中曽根はこれをしりぞける。
10月12日、ロッキード事件判決の日。東京地裁は角栄に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決をくだした。
角栄は裁判をたたかいつづける覚悟をする。
さまざまな人間が議員をやめるようにさとすが、角栄はくびを縦にふらない。
1983年12月、衆院選挙の投票日がきまった。
角栄とともに作家の野坂昭如が新潟三区にはいった。角栄を批判しての立候補である。
この選挙の演説のなかで、角栄のモノの考えがわかるものがある。
「戦後というのは、革命がおきても不思議じゃなかった。おこらなかったのは、同族国家だからだ。兄弟がたくさんいれば、なかには社会党になるのもいる。共産党だってひとりくらいはいる。しかし、おやじの葬式のときはみんな集まってくる。そういうもんだ」
角栄独特の共同体思想がうかがえる。
12月18日、投票日。角栄は22万761票を獲得する。野坂昭如は落選した。
自民党は250議席と過半数をわったが、田中派は62議席で解散時より2議席へらしただけだった。
角栄の政治人生、最後の輝きであった。
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1985年1月、金丸信は田中派の若手議員をあつめた。
橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜が顔をそろえる。
竹下登を首相候補に立て、金丸がそれを支える。会の名前は創政会とする。
竹下が角栄に対しておこしたクーデターだった。
2月、角栄は倒れる。
1989年10月14日、角栄の娘婿・田中直紀が長岡市の越後交通本社で角栄の引退表明をよみあげた。
角栄はすでにしゃべることができなくなっていた。
そして、1993年。
7月には娘の眞紀子が新潟三区で初当選していた。8月9日には細川護熙内閣が発足した。
この年の12月16日、田中角栄は慶応大学病院でなくなった。最後のコトバは「眠い」のひとこと。
享年75歳だった。
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さて、五回にわたって連載してきましたが、今回で終わりです。さいごまで、読んでいただいた方には感謝感謝です。
なんともかたっくるしい文体で、読んでる人もお疲れになったでしょうが、書いてるわたしもしんどかったです(笑)。
でも、まあ、いろいろと勉強になりました。
いちおう、次回の「Book Recommend」で総括しますんで、ぜひお読みになってください。
次回の連載はスティーブ・ジョブズにスポットをあてていきたいと考えてます。
それでは、また!