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田中角栄 BOOK RECOMMEND

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さて、田中角栄について五回にわたって連載してきました。

 

読みづらいところがおおかったなーと反省してます。また、いつの日か再チャレンジしたいと思っているので、こんかいの経験はそのときに活かそうかと。

 

それでは、私見もまじえて総括しますかね。えーっと、そのまえに今回おせわになった著書がこちらです。

 早野透さんという方が書かれた本。その名もズバリ、『田中角栄』。中公新書ですね。千円ちょっとで買うことができます。

 

早野さんは朝日新聞の記者で、角栄の首相時代から死ぬまでを近くで見続けてきたひとです。

 

内容はかなりヴォリューミーで、読後感は厚めのハードカバーを読みきった後のそれに匹敵。新書のアッサリ感はありません。本格的。まあ、質・量ともにしっかりとした本を安い値段で買うことができる、というメリットでもあります。

 

なにぶん古い時代のことをあつかってますからね。ひとの名前にはじまって、いろいろな事件、地名、法律の名前がでてきます。それらは、だいたい馴染みがない。ぼくはなんにも知識がなかったので、けっこう調べながらよんでました。

 

すでに戦後日本の歴史、とくに政治についてひととおり頭にはいってるひとはスラスラと読めるかと思いますけど、ぼくのようになんにも知らないひとにはすこしキツイかもしれません。

 

戦後日本政治史としても読むことができます。信頼できる一冊。オススメです。

 

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

さて、それでは総括を。

 

もともと、ぼくが田中角栄に興味をもったのは、さいきん、本屋さんにいくと田中角栄にかんする本がたくさん置かれていたからでした。なんで、いま、田中角栄なんだろうかと。

 

あと、個人的になんですけど、半藤一利さんの『昭和史』という本を読んだんですね。これは上巻が1926ー1945まで、下巻が1945ー1989までを扱った本なのですが、下巻のほとんどは1960年ころまでの内容です。

 

タイトルに偽りありっ!そう思いました。でも、内容的にはいい本ですよ。

 

それで、ぼくの頭のなかは、1960年から90年くらいまでの日本の歴史がすっぽり抜けた状態だったので、それを埋めたいなーって思ったんです。

 

 そのためには、田中角栄にかんする本を読むのがいいだろう。そう考えて調べはじめたんです。これはそれほど見当はずれなことではありませんでした。

 

けっきょく、どうして、いま、角栄なのかっていうことは分かりませんでしたね。自分なりの仮説もたてがたい。

 

石原慎太郎が角栄にかんする本をだしたから、ってことがおおきく影響しているのかなあ。よく分かりません。

 

角栄はカネで政治をうごかしたひとです。選挙をするにもカネ。人にお願いするにもカネ。カネ、カネ、カネ。いまどき、こんな政治のやり方したら、総バッシングでしょう。角栄を懐かしむひとが、まさか、この金権政治を懐かしんでいるとはおもえない。

 

「ああ、ワイロがたくさん飛び交って、いい時代だったな」そんなこと、思わないでしょう、普通。

 

もちろん、カネだけではなくて、情に厚いというか、義理堅さを感じさせるひとでもあります。おおくのひとが魅了されたというのもうなづける。

 

総理大臣の雰囲気じゃないんですよね。田舎のおおきな土建屋の社長、そんな雰囲気です。実際、角栄は土建屋で成功して、そのお金を足がかりにして政界に進出していますから。最後まで、この土建屋の気質はもちつづけた感があります。

 

角栄自身、総理大臣はとっても窮屈だったって言ってます。自分に合っていたのは、自民党幹事長だったと。

 

ぼくもそう感じます。総理大臣は外交とか軍事とか、国内だけでない、国外のこともかんがえなきゃいけない。でも、角栄の中心テーマは国民の「生活」です。道路をつくったり、河川を整備したりする。新幹線、高速道路をつくって、そうやって日本全域を発展させる。

 

そこに興味が集中している感があるので、総理大臣の職は合わなかっただろうなと。

 

義理人情にうったえる部分も多いので、そういう手法はアメリカとか西欧の連中には通用しなかったんじゃないかな。中国はちょっと違うと思いますけど。

 

学歴は小学校高等科卒。まわりの連中は官僚も政治家も東京帝国大学卒ばっかですからね。

 

ある種の出世物語を懐かしんでるのかなあ、角栄をなつかしむひとは。

 

 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 

それでは、視点を切り替えて、角栄が政治家だった時代を生きてない、若い世代にとって、角栄について知ることに有益な点があるか、どうか。

 

これはありますね。

 

たとえば、郵便局。

 

角栄が郵政大臣だったときに、特定郵便局二万局拡大構想っていうのをぶちあげるんですよ。まあ、言ってしまえば、国民に郵便局に貯金させて、そのカネをもとに公共事業を実施する、そういうことです。

 

この特定郵便局っていうのは、その地域の「名士」みたいなひとが局長をやってました。顔がききますからね。この特定郵便局を起点としたネットワークは自民党の集票マシンと化しました。

 

日本人の貯蓄癖、あと、どうしてこんなに郵便局が大量に存在するのか。そのあたりのいきさつが分かったような気がします。

 

あとは、政治家と有権者の関係。

 

角栄を支えたのは「越山会」っていう、新潟の県央から山間部にかけてのエリア、新潟三区とよばれていたところにネットワークをはっていた政治団体です。

 

この越山会では、選挙ごとに得票率を計算するんですね。で、得票率がよかった地域にはごほうびとして、公共事業が実施されると。得票率がわるかったところ、つぎはがんばってくださいねって感じです。

 

まあ、しょうがないと思うんですけどね。たしかに、社会党とか共産党みたいに、いつまでたっても実現するわけがない理想論きかされるよりも、現実的に、自分の地域にあたらしい道路ができたりするほうが、よほどありがたい。

 

有権者も投票しますよ、そりゃ。

 

ただ、ぼくが気になるのは、この構造は平成の時代がはじまって、かれこれ30年ちかくたつのに、なんにも変わっちゃいないってことです。

 

べつに、角栄を批判するつもりはありません。

 

ただ、角栄に象徴される、政治家と有権者の関係。有権者は政治家を支える代わりに、自分たちの地域、自分たちの業界に便宜をはかってもらうというこの関係。

 

いまは国内の「生活」よりも海外との「競争」にどうやって打ち勝っていくか、そのために資源を投下しなければいけないんであって、そういうことを考えて実践していく政治家が求められてるし、有権者もまたそういう政治家をえらぶ必要がある。

 

だから、いい加減、高度経済成長期に通用した、この政治家と有権者の関係をみなおすべきだ。

 

そういう意識をもつためにも、角栄という政治家がやったことをみておくのは無駄ではない、そう思います。

連載 田中角栄 #05/05

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角栄にとって気がかりなことがあった。田中派内の若手議員の不満である。

 

首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とつづいていた。なぜ、田中派から候補をださないのか。

 

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角栄は田中派から首相候補をだし、自らの求心力がおちるのをおそれていたのである。

 

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総理大臣となった中曽根康弘は、1983年の年が明けてから、韓国を訪問した。つづいてアメリカに飛び、レーガン大統領と「ロンヤス関係」とよばれる信頼関係をむすぶ。

 

一方の角栄は、論告求刑の日をむかえていた。検察側は角栄に懲役5年、追徴金5億円を求刑する。

 

角栄は秋に予定されているロッキード事件の判決前に、衆院選参院選のダブル選挙を主張する。

 

しかし、中曽根はこれをしりぞける。

 

10月12日、ロッキード事件判決の日。東京地裁は角栄に懲役4年、追徴金5億円の実刑判決をくだした。

 

角栄は裁判をたたかいつづける覚悟をする。

 

さまざまな人間が議員をやめるようにさとすが、角栄はくびを縦にふらない。

 

1983年12月、衆院選挙の投票日がきまった。

 

角栄とともに作家の野坂昭如が新潟三区にはいった。角栄を批判しての立候補である。

 

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この選挙の演説のなかで、角栄のモノの考えがわかるものがある。

 

「戦後というのは、革命がおきても不思議じゃなかった。おこらなかったのは、同族国家だからだ。兄弟がたくさんいれば、なかには社会党になるのもいる。共産党だってひとりくらいはいる。しかし、おやじの葬式のときはみんな集まってくる。そういうもんだ」

 

角栄独特の共同体思想がうかがえる。

 

12月18日、投票日。角栄は22万761票を獲得する。野坂昭如は落選した。

 

自民党は250議席と過半数をわったが、田中派は62議席で解散時より2議席へらしただけだった。

 

角栄の政治人生、最後の輝きであった。

 

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1985年1月、金丸信は田中派の若手議員をあつめた。

 

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橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六、小沢一郎、羽田孜が顔をそろえる。

 

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竹下登を首相候補に立て、金丸がそれを支える。会の名前は創政会とする。

 

竹下が角栄に対しておこしたクーデターだった。

 

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2月、角栄は倒れる。

 

1989年10月14日、角栄の娘婿・田中直紀が長岡市の越後交通本社で角栄の引退表明をよみあげた。

 

角栄はすでにしゃべることができなくなっていた。

 

そして、1993年。

 

7月には娘の眞紀子が新潟三区で初当選していた。8月9日には細川護熙内閣が発足した。

 

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この年の12月16日、田中角栄は慶応大学病院でなくなった。最後のコトバは「眠い」のひとこと。

 

享年75歳だった。

 

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さて、五回にわたって連載してきましたが、今回で終わりです。さいごまで、読んでいただいた方には感謝感謝です。

 

なんともかたっくるしい文体で、読んでる人もお疲れになったでしょうが、書いてるわたしもしんどかったです(笑)。

 

でも、まあ、いろいろと勉強になりました。

 

いちおう、次回の「Book Recommend」で総括しますんで、ぜひお読みになってください。

 

次回の連載はスティーブ・ジョブズにスポットをあてていきたいと考えてます。

 

それでは、また!

連載 田中角栄 #04/05

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1971年7月15日、ニクソン米大統領は中国を訪問する予定があることを発表した。

 

「金とドルの交換の一時停止」とならぶ「ニクソン・ショック」のひとつである。

 

首相となった角栄は日中国交正常化にむけて動きだす。

 

「周恩来、毛沢東といった中国の『創業者』の目の黒いうちにやらなきゃイカン」

 

1972年8月31日、角栄はハワイに飛び、ニクソンとの首脳会談にのぞんだ。角栄はニクソンに日中国交正常化にむけて動くことを伝える。

 

9月17日、自民党副総裁・椎名悦三郎が特使として台湾に飛ぶ。蒋介石はかぜと称して会ってもくれなかった。

 

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9月25日、角栄は大平正芳外相らとともに北京空港におりたった。出迎えた周恩来と握手をかわす。

 

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角栄と周恩来のやりとりは雑ぱくだった。

 

「日本は中国に迷惑をかけっぱなしだ」
「それで、アンタはどうするんだ」
「だから、わたしのほうから会いにきたんだ」
「日本に殺された中国人は1100万人もいるんだぞ」
「日中両国が永遠の平和をむすぶ以外にない。だけど、あなたがたも日本を攻めてきたことがあったではないか」
「それは元寇のことか。あれはわが国ではない。蒙古だ」
「1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか」
「アンタ、よく勉強してきたね」

 

こんな調子で話し合いはすすんでいった。角栄は「蒋介石をどう思うか」、「尖閣諸島についてどう思うか」などと持ちだしたりした。

 

1972年9月29日、日中共同声明に調印する。中国もソ連とのあいだの緊張の高まりから、日本との国交をはやめに回復する必要があった。政権発足から三ヶ月もたっていなかった。

 

日中関係の修復という成果にもかかわらず、角栄にたいする支持は低下していく。

 

12月10日に実施された衆院選挙では、自民党は解散前の297議席から271議席とおおきく後退した。

 

いったい、敗因はなんだったのか。ポイントは『日本列島改造論』にある。

 

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角栄の著書、『日本列島改造論』は1972年6月20日に発刊された。

 

といっても角栄が「書いた」のは序文と「1 私はこう考える」と「むすび」で、ほかは官僚や秘書、新聞記者がたずさわった。

 

主張は日本列島全域の発展だ。都市はどんどん過密になり、農村はどんどん荒廃していく。これでは、イカンというわけだ。

 

そのために何をするか。

 

工業団地を整備する。新幹線と高速道路をつくる。情報通信網のネットワークを形成する。

 

そうすれば、「都市と農村、表日本と裏日本の格差はかならずなくすことができる」というわけだ。

 

本のなかには具体的な地名や理想図がでていた。それをみて喜んだひともいたが、危惧したひともいた。

 

なんの整備をするにせよ、用地買収がひつようになる。が、土地の値上がりに対する対策がない。期待で土地の値段があがりはじめたら、ほかの物価もつられてあがりはじめるだろう。そもそも前提となる経済の高成長があやしい・・・。

 

そして、1972年10月、第四次中東戦争が勃発。オイルショックがおこる。石油の値段は4倍にはねあがった。

 

田中内閣の成立後、世間は「狂乱物価」とよばれるインフレに苦しめられる。

 

11月、愛知揆一蔵相が急死する。角栄は後任を福田赳夫におねがいするが、福田はすぐには引き受けなかった。

 

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福田は角栄に言う。「経済の運営は手綱が二本ある。人間でいえば呼吸が物価、脈拍は国際収支だ。いまは二本の手綱がめちゃくちゃになってきた。オイルショックのせいじゃない。日本列島改造論のせいだ。これを引っ込めないかぎり事態の修復はできない」

 

角栄は日本列島改造論を撤回し、事態の修復を福田にまかせた。

 

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1974年10月9日。月刊誌『文藝春秋』の11月号に2本の記事がのった。

 

立花隆の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と児玉隆也の「淋しき越山会の女王」である。

 

立花隆は言う。「そのインパクトの大きさは、その論文プロパーの持つ力ではなかった。背中に荷物を目いっぱい積んでようやく立っているロバの背に、ワラを一本のせただけで、ロバはひっくりかえることがある。私はただ、最後の一本のワラをのせる栄誉を担ったただけにすぎない」

 

児玉隆也は「越山会の女王」、佐藤昭について書いた。越山会とは新潟三区、三十三市町村にまたがる角栄の政治団体である。年間20億円の政治献金、その金庫番が佐藤昭だった。

 

新潟県柏崎の生まれで、角栄がはじめて選挙に立候補したときに出会った。

 

1952年、角栄に「オレの秘書にならないか」とさそわれる。

 

1957年、角栄とのあいだに女の子をもうけた。

 

ウラでは”角栄の懐刀”とささやかれ、オモテでは”佐藤ママ”とよばれた。

 

角栄が総理大臣になるとき、角栄の秘書だった麓邦明と早坂茂三はうったえた。「佐藤昭は命取りになる。切ってほしい」

 

角栄は、こたえる。「切れない。キミたちにはわからない事情がある」

 

麓は角栄のもとを去り、かれらの危惧は現実となる。

 

1974年11月26日。角栄は首相さいごの朝をむかえる。

 

角栄邸の前の日本女子大学の窓から手をふる女子学生がいて、角栄はうれしそうに手をふりかえした。

 

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角栄の後任はだれになるのか。自民党は危機に立たされていた。自民党内部もさまざまな政治力学がはたらき、分解しそうになっていた。

 

たくされたのは椎名悦三郎である。12月1日、椎名は三木武夫、中曽根康弘、大平正芳、福田赳夫を前にして裁定をだした。

 

 

 

「わが党は第一歩より出直すにひとしいきびしい反省と強い指導力が要求されています。政治の空白は一日たりとも許されません。わたしは国家国民のために神にいのる気持ちで考えぬきました。国民は派閥抗争をやめ、近代政党への脱皮について研鑽と努力を怠らざる情熱を持つ人を待望しています。わたしはこの際、政界の長老である三木武夫くんを推挙申しあげます」

 

椎名は裁定をよみあげるとサッと席を立った。

 

福田、中曽根はこの裁定を受けいれる。問題は大平である。

 

大平は盟友、田中角栄のもとに駆け込む。

 

角栄「これはしょうがない。うまくやられた。51対49でキミの負けだよ」

 

かくして三木政権が誕生する。

 

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年が明けて1976年2月5日。ワシントンから衝撃的なニュースがとどく。

 

アメリカの航空機メーカー・ロッキード社から日本の商社・丸紅と児玉誉士夫に巨額のワイロがわたっていた、というものである。さらにロッキード社は、全日空への売り込みのため、国際興業社主の小佐野賢治におねがいしたこと、日本政府当局者にワイロをおくったことを認めた。

 

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世にいうロッキード事件である。

 

捜査の延長線上には田中角栄の名前があがっていた。

 

三木首相はこれを機に角栄の影響力を減殺しようともくろむ。

 

1976年7月27日早朝、角栄は逮捕される。8月16日、東京地検は角栄を受託収賄罪と外国為替管理法違反で東京地裁に起訴した。

 

自民党内からは「前総理まで逮捕させるとは、三木はやりすぎだ!」という声があがる。三木おろしがはじまった。

 

1976年11月15日、「ロッキード選挙」とよばれる衆院選挙が公示された。

 

角栄は新潟三区入りする。はたして、どれくらいの票をあつめるのか。

 

12月5日、開票。角栄は16万8522票で圧勝だった。

 

当時、朝日新聞の編集委員だった本多勝一がこんな文章をのこしている。

 

中央に対するイナカ、「表」に対する「裏」、都市的・秀才的・エリート的な「日の当たる世界」に対する「ふみつけにされつづけた側」の怒りと痛み。それをたくして反撃に出たのが、こんどの17万票だともいえよう

 

三木は退任し、福田赳夫が首相の座につく。

 

1977年1月27日。角栄はいよいよロッキード裁判をむかえる。それから判決の日までの6年8ヶ月間、東京地裁の計191回の公判廷にかよった。

 

角栄は一貫して容疑を否認しつづけた。

 

福田赳夫のあとの首相は、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘とつづいた。

 

「目白の闇将軍」とよばれた角栄は、ウラで政治を動かしつづけていた。

連載 田中角栄 #03/05

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1957年7月10日、角栄は郵政大臣として初入閣する。岸首相の最初の改造内閣のことであった。角栄、39歳である。

 

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大臣としての仕事がはじまったとき、角栄が屋上にのぼると建設が途中でストップしいている東京タワーが目にとびこんできた。きけば建築基準法違反だという。

 

「よし、これは俺が処理してやる!」

 

角栄は建設事務次官にちょくせつ、かけあった。

 

「東京タワーは広告塔であってふつうの建物とはちがう。高さ制限の対象ではない」

ストップしていた工事は再開され、1958年12月23日に、無事、完成する。

 

角栄は労使関係の正常化に着手した。全逓信労働組合の幹部7人の解雇をふくむ、全組合員の一割にそうとうする2万人を処分した。

 

また、放置されていたテレビの免許許可を一括でおこなった。テレビ時代のとうらいを見こしてのことだった。

 

そして、特定郵便局、二万局拡大構想なるものをぶちあげた。

 

特定郵便局とは、局舎をタダで提供してもらうかわりに、地方の名望家を郵便局長に登用、「官」の身分をあたえる。長年つとめあげれば勲章がもらえ、代替わりの世襲もできる。郵便局長は「顔」で地域の貯金をあつめ、戦時中は軍事費にまわされたりした。

 

角栄はかんがえた。国民からあつめる税金だけではない、国民の貯金も公共投資にまわせば、日本経済の飛躍のバネになるのではないか・・・。

 

しかし、二万局というのはおおげさで、結局、さいしょは二千局がみとめられた。

 

のち、特定郵便局を基点としてはりめぐらされたネットワークは自民党の集票マシンとなる。

 

「道路」、そして「郵政」。

 

自民党の派閥体質。政官業の癒着体質。すべては角栄からはじまっている。小泉純一郎が「ぶっこわす」とした「構造」である。

 

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むかえた1958年5月の衆院選挙。角栄はトップ当選。岸政権のもとで自民党副幹事長となる。

 

角栄は佐藤栄作を代表とする、佐藤派の派閥代表だった。そして、副幹事長として六〇年安保闘争をむかえる。

 

 

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時代は「安保」の岸から「所得倍増」の池田へ。

 

「所得倍増」をうちだした池田勇人が自民党総裁選をせいした。

 

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1960年11月の衆院選挙。角栄はトップ当選し、当選回数は7回をかそえるまでになった。

 

1961年7月、角栄は自民党政務調査会長になる。

 

1962年2月、来日中のロバート・ケネディ司法長官が自民党の若手議員と懇談したいと要望した。

 

 

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あつめられたのは、中曽根康弘、宮澤喜一、そして政務調査会長の田中角栄。

 

オフレコの席だったにもかかわらず、東京タイムズの早坂茂三がスクープ記事をかいた。

 

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角栄はケネディにこう言った。日本が憲法改正して再軍備し、日米共同防衛体制をととのえなければ、沖縄を日本にかえすことはできないだろう。それならば、沖縄返還にあたっては、アメリカのほうから日本に憲法改正と再軍備を要請してくれ・・・。

 

池田首相は尻ぬぐいにおわれることになる。

 

早坂茂三は「記事を書いたのは自分です」と、角栄に名乗りでる。

 

角栄はこたえる。「君の顔なら知っている。記者は書くのが仕事、政治家は書かれるのが仕事だ。こんかいは君の勝ちだ。ナニ、騒ぎはじきおさまる。野党がオレの首をとれるものか」

 

早坂は角栄に魅せられ、のちに秘書となる。

 

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1962年7月、第二次池田改造内閣で角栄は大蔵大臣に就任する。史上最年少、44歳だった。

 

このとき、外務大臣となった大平正芳は生涯の盟友となる。

 

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角栄は初登庁で大蔵官僚を前に訓示をのべた。

 

「わたしは小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家だ。わたしは素人だが、いささか仕事のコツをしっている。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室へ来てほしい。上司の許可をえる必要はない。できることはやる。できないことはやらない。すべての責任はこの田中角栄が負う」

 

角栄は官僚操縦に長けており、魅了される官僚もいた。

 

1964年10月、東京オリンピックを見届けた池田勇人は首相退任を表明する。池田はがんを患っていた。

 

次の政権を担ったのは、佐藤栄作である。角栄はひきつづき大蔵大臣をつとめた。

 

1965年6月、角栄は自民党幹事長に就任する。佐藤政権のもと、2回にわけて延べ4年1ヶ月つとめた。

 

幹事長のおもな仕事は、人事にかんする党内調整、野党とのつきあい、国会運営の指揮、選挙の候補者選定、選挙戦の采配、である。

 

世話焼きの角栄にピッタリの役柄だった。

 

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佐藤栄作は「沖縄返還」を掲げていた。

 

1967年11月、佐藤は訪米してジョンソン大統領と会談した。共同声明に「両3年以内に返還の時期を決めること」と盛り込むことができた。

 

 

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1968年11月、一時、無役でいた角栄が幹事長に復帰する。

 

1969年11月、佐藤はワシントンに飛び、ジョンソン変わってニクソン大統領との会談に臨んだ。

 

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ニクソンは南部諸州の票をえるために、繊維製品の対米輸出国に自主規制させることを主張、応じない場合は輸入制限すると公約していた。

 

ニクソンは「沖縄問題」と「繊維問題」を絡ませてきた。

 

1969年12月の衆院選挙。角栄が陣頭指揮をとり、稀にみる大勝利をおさめた。

のちの田中派の中核となる、小沢一郎、羽田孜、梶山静六、渡部恒三らが初当選。田中派以外では、森喜朗、浜田幸一。野党では土井たか子、不破哲三の名前がならんだ。

 

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「繊維問題」はいっこうに片づかなかった。これが片づかないことには「沖縄返還」もままならない。

 

1971年7月、佐藤首相は内閣改造をし、角栄を通産相に起用する。「繊維問題」を託した。

 

角栄は輸出規制によって余ってしまう織機を政府が買い上げることにした。そのためにかかる費用はざっと2000億円。

 

通産省の予算が数千億円のレベルである。

 

角栄は総理大臣、大蔵大臣、大蔵省主計官を納得させた。「織機は倉庫にしまわせてはイカン。ぜんぶ壊せ」という指示もだすという徹底ぶりだ。

 

1971年10月、「日米繊維協定のための了解覚書」が調印された。

 

1972年5月15日、沖縄が返還される。

 

6月、佐藤栄作は首相退任の記者会見にのぞんだ。7年8ヶ月の長期政権は終わりをつげた。

 

角栄は福田赳夫との総裁選を制し、1972年7月6日、国会で内閣総理大臣に指名される。

連載 田中角栄 #02/05

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角栄がひらいた事務所は飯田橋駅のちかくで、あるくとすぐに神楽坂の界隈にはいる。神楽坂は角栄のホームグラウンドとなる場所だ。

 

角栄はここで「料亭政治」を身につけていく。芸者衆、仲居、板場、玄関番のおじいさんにいたるまで心付けをわすれなかった。

 

1945年、敗戦のとしの11月、進歩党の大麻唯男によばれた。大麻唯男は田中土建工業の顧問のひとりである。

 

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呼ばれた角栄はこういわれた。「キミ、いくらかカネをだしてくれないか」

 

進歩党は、宇垣一成と町田忠治が党首の座をあらそっているところだった。先に300万円あつめたほうが党首になる、そういう約束だった。

 

大麻は町田を推していた。角栄は了承し、巨額の献金をした。

 

カネの無心から半月ほどして、こんどは大麻は角栄に選挙の立候補をすすめてきた。

 

「15万円だして黙って1ヶ月おみこしにのっていれば当選するよ」

 

結果は、落選。「おみこしの担ぎ手」が角栄をかつぐどころか、自分で立候補してしまったこと、有力者にわたしたカネが選挙に活きなかったことが敗因だ。

 

チャンスはすぐにやってきた。1947年4月、戦後2回目の衆院選がおこなわれることになった。

 

「こんどは人任せにしない」

 

角栄は新潟三区に出馬。柏崎と長岡に田中土建の出張所をつくり、社員100人を採用して選挙運動を展開した。

 

 

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結果は3位で当選。角栄は政界入りをはたす。29歳だった。

 

角栄のテーマは「産業」と「生活」だった。

 

農村工業の発達、中小工業都市の発達、人口集中の排除をうったえた。後の「日本列島改造論」にみられる考えがそのままあらわれている。

 

角栄が当選した選挙では社会党が第一党になり、片山哲を首相とする内閣がうまれた。

 

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このとき国会で「炭鉱国家管理法案」というものが議論される。石炭産業の本社機構と生産現場をきりはなす。国が生産現場をおさえて増産し、そこに労働者を参加させる。社会主義色がつよい政策だった。

 

時を同じくして、角栄の田中土建工業は急成長していた。炭鉱のある九州で炭鉱住宅を手がけていた。法案が成立すればじぶんの商売にも影響がでる。

 

角栄は法案に反対した。このときの話が後の「炭鉱国管汚職事件」につながってくる。

 

1948年3月、吉田茂を総裁とする民主自由党が誕生した。10月、第二次吉田内閣ができる。角栄はここで法務政務次官に抜擢された。

 

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角栄いわく、「えらくなるには大将のふところに入ることだ」

 

余談だが、吉田茂が愛飲していたお酒は「オールド・パー」というブレンディッド・ウイスキーだ。若き日の角栄に吉田はオールド・パーをふるまったことがあった。角栄の愛飲酒もまたオールド・パーである。「大将」を想いつづける気持ちがどこかにあったのかもしれない。

 

吉田内閣が発足してひと月ほどたったころ、東京高等検察庁による家宅捜索が角栄の自宅、田中土建などにはいった。

 

炭鉱国家管理法案に反対する九州の採炭業者からワイロをうけとった容疑がかけられていた。

 

炭鉱国管汚職事件である。

 

1948年12月、角栄は東京拘置所に収監される。

 

そして、12月23日、A級戦犯が処刑されたこの日に、吉田首相は衆議院を解散する。

 

獄中にいた角栄は立候補を決意する。保釈許可がおりてシャバにでたのは1月13日。選挙運動をする時間は10日間しかなかった。

 

にもかかわらず、結果は2位で当選。支えたのは南魚沼、栃尾といった土地の若者たちだった。旧態依然とした支配構造に嫌気がさし、若い角栄に懸けていた。

 

数年ののち、新潟三区、三十三市町村にはりめぐらされる政治結社「越山会」が育っていく。

  

炭管事件については、1950年4月、第一審の判決で角栄は有罪になる。がしかし、二審の東京高裁では一転、無罪判決となった。

 

なにはともあれ、最初の危機をのりきった。

 

角栄が獄中で立候補を決意したこの衆院選は、吉田茂ひきいる民主自由党が大勝利をおさめた。

 

池田勇人、佐藤栄作、西村英一、前尾繁三郎らが当選した。かれらは「吉田学校」とよばれるようになり、角栄の政治人生にもおおきな影響をおよぼしていく。

 

 

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当時の角栄のテーマは「住宅」だった。

 

1951年5月から6月にかけて「公営住宅法」と「住宅金融公庫法改正」が成立した。いずれも角栄が提案者となった議員立法である。

 

「無名の一〇年」といわれる角栄のこの時代のハイライトは道路法の抜本改正だ。

このころ、日本の道路のほとんどは未整備だった。

 

旧道路法では「国道」とは天皇と軍のためにもちいられるものを指した。角栄はこれを新道路法において、政治上、経済上、文化上の重要都市を結ぶものとあらためた。

 

道路建設の決定には大臣だけでなく、道路審議会をかかわらせることにした。「陳情」による道路をつくりやすくするためでもあった。

 

1952年6月、道路法は成立した。

連載 田中角栄 #01/05

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1918年5月4日、田中角栄は新潟県刈羽郡二田村坂田(現新潟県柏崎市西山町坂田)でうまれた。

 

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父、角次は馬喰(ばくろう)をしていた。馬喰とは、馬や牛を商うもののことをいう。母、フメは働きもので、夜もあけないうちから田んぼで働いていた。

 

1925年4月、角栄は二田尋常小学校に入学する。角栄は高等科の2年をくわえて8年かよった。勉強がよくできて、ずっと級長をしていた。

 

1933年、角栄は高等小学校を卒業。世の中はえらい不景気で、農村では娘を売るものもいた。世界戦争になるかもしれない、そんな気配がたちこめていた。

 

ときの蔵相、高橋是清は「時局匡救(きょうきゅう)事業」をおこなった。公共事業の実施である。

 

角栄は土方として働きはじめるが、ほどなくしてやめてしまう。こんどは柏崎にある県の土木派遣所ではらたきはじめた。

 

1934年、角栄は上京する。大河内正敏という人物のもとで書生として学校にかよえる予定であった。

 

大河内正敏とは、理化学研究所の第三代所長をつとめた人で、設立した理化学興業は軍需をえて急速に拡大していた。柏崎にも工場をつくった。

 

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屋敷をたずねた角栄は、しかし、門前払いされてしまう。大河内には会うこともできなかった。

 

 

角栄は新潟にもどらず、工事現場や建築事務所ではたらいた。

 

建築事務所で働いていたころ、エレベーターで、偶然、大河内正敏と一緒になった。

 

後日、大河内の部屋によばれた角栄は、上京したときのいきさつについて語った。

 

事務所をやめることになった角栄は、1937年春、共栄建築事務所をつくって独立する。大河内の理研コンツェルンから仕事を請けおった。軍需産業が膨張していた。角栄は二十歳にして資産を築くことができた。

 

そんな角栄も徴兵されることになる。1939年、角栄は満州におくられた。

 

角栄の戦争体験は、「古参兵によるいじめ」である。そこには戦場において、殺して殺されてという体験はふくまれていない。

 

理不尽なしごきを受ける角栄は、しかし、持ち前の資質を活かして、上官の心をつかみ、暴力支配からするりとぬけだしていく。

 

1940年11月、角栄は病気でたおれてしまう。内地送還となった。

 

1941年、仙台の病院におくられた角栄は、生死の境をさまよう。10月、除隊通知がくる。二ヶ月後、真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争に突入する。

 

1942年、角栄は坂本はなと結婚する。角栄は除隊後、飯田橋駅ちかくの家をかりて事務所をひらいた。借りた家は坂本木平という土木建築業者のものであった。

 

坂本はなは、その家の娘だった。

 

1943年、角栄はひらいた事務所を「田中土建工業株式会社」に組織変更する。年間施工実績で、全国50社に数えられるまでに成長する。

 

角栄は戦争のおかげで資産をたくわえることができた。戦後、角栄はそれを足がかりにして政界にのりだしていく。

連載 田中角栄 予告編

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かつて田中角栄という政治家がいた。

 

最終学歴は小学校卒。総理大臣にまでのぼりつめた。

 

裸一貫からの叩きあげ。

 

作家・石原慎太郎が角栄をテーマにして『天才』という本をだした。けっこう売れているらしい。

 

この本がきっかけになったのかどうかわからないが、角栄にかんするたくさんの本が書店にならべられるようになった。

 

昭和という時代、戦後日本を象徴する人物として角栄をあげるひとは少なくない。

 

角栄の政治はカネにまみれていたし、そのことが政治家生命をうばうことにもなった。

 

1974年10月。月刊誌『文藝春秋』は11月号に二本の記事をのせる。

 

立花隆「田中角栄研究 その金脈と人脈」と児玉隆也「淋しき越山会の女王」である。

 

一方はカネをあばき、一方はオンナをあばいた。

 

1974年11月26日。首相の座にあった角栄は辞意を表明する。在任期間は二年五ヶ月だった。

 

約一年後、こんどはロッキード事件という未曾有の汚職事件がおこり、角栄は逮捕、刑事被告人となる。

 

今なお日本人の心にのこっている、田中角栄というのはいかなる人物で、どういう足跡をのこしたのか。

 

今回の連載では、それをささやかながら描き出してみたい。

 

なお、今回の連載の内容の大部分は早野透著『田中角栄 戦後日本の悲しき自画像』(中公新書)に負った。

 

ここに謝意を表する。