連載 田中角栄 #01/05

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1918年5月4日、田中角栄は新潟県刈羽郡二田村坂田(現新潟県柏崎市西山町坂田)でうまれた。

 

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父、角次は馬喰(ばくろう)をしていた。馬喰とは、馬や牛を商うもののことをいう。母、フメは働きもので、夜もあけないうちから田んぼで働いていた。

 

1925年4月、角栄は二田尋常小学校に入学する。角栄は高等科の2年をくわえて8年かよった。勉強がよくできて、ずっと級長をしていた。

 

1933年、角栄は高等小学校を卒業。世の中はえらい不景気で、農村では娘を売るものもいた。世界戦争になるかもしれない、そんな気配がたちこめていた。

 

ときの蔵相、高橋是清は「時局匡救(きょうきゅう)事業」をおこなった。公共事業の実施である。

 

角栄は土方として働きはじめるが、ほどなくしてやめてしまう。こんどは柏崎にある県の土木派遣所ではらたきはじめた。

 

1934年、角栄は上京する。大河内正敏という人物のもとで書生として学校にかよえる予定であった。

 

大河内正敏とは、理化学研究所の第三代所長をつとめた人で、設立した理化学興業は軍需をえて急速に拡大していた。柏崎にも工場をつくった。

 

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屋敷をたずねた角栄は、しかし、門前払いされてしまう。大河内には会うこともできなかった。

 

 

角栄は新潟にもどらず、工事現場や建築事務所ではたらいた。

 

建築事務所で働いていたころ、エレベーターで、偶然、大河内正敏と一緒になった。

 

後日、大河内の部屋によばれた角栄は、上京したときのいきさつについて語った。

 

事務所をやめることになった角栄は、1937年春、共栄建築事務所をつくって独立する。大河内の理研コンツェルンから仕事を請けおった。軍需産業が膨張していた。角栄は二十歳にして資産を築くことができた。

 

そんな角栄も徴兵されることになる。1939年、角栄は満州におくられた。

 

角栄の戦争体験は、「古参兵によるいじめ」である。そこには戦場において、殺して殺されてという体験はふくまれていない。

 

理不尽なしごきを受ける角栄は、しかし、持ち前の資質を活かして、上官の心をつかみ、暴力支配からするりとぬけだしていく。

 

1940年11月、角栄は病気でたおれてしまう。内地送還となった。

 

1941年、仙台の病院におくられた角栄は、生死の境をさまよう。10月、除隊通知がくる。二ヶ月後、真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争に突入する。

 

1942年、角栄は坂本はなと結婚する。角栄は除隊後、飯田橋駅ちかくの家をかりて事務所をひらいた。借りた家は坂本木平という土木建築業者のものであった。

 

坂本はなは、その家の娘だった。

 

1943年、角栄はひらいた事務所を「田中土建工業株式会社」に組織変更する。年間施工実績で、全国50社に数えられるまでに成長する。

 

角栄は戦争のおかげで資産をたくわえることができた。戦後、角栄はそれを足がかりにして政界にのりだしていく。